本興寺文書 第一〜六巻
清文堂史料叢書第125〜129・140刊
本興寺編

  刊行の辞

大本山本興寺貫首 小西日遶   
 本興寺は兵庫県尼崎市に所在する法華宗(本門流)の大本山であり、応永二十七年(一四二〇)日隆聖人によって開創された。日隆聖人は大部の著述を成した日蓮門下随一の学匠であるが、同時に北陸敦賀より京を経て、尼崎・堺・兵庫・牛窓・宇多津といった港に拠点を設けた布教者でもあった。そして入滅後も弟子達の布教は続けられ、南海の種子島・屋久島・口永良部三島が皆法華となり門流に属したことで、戦国時代には瀬戸内沿岸に教線と信者のネットワークが成立し、比翼両輪と言われる京都本能寺と共に大きな力を持つに至った。本興寺は三好氏の援助を受けて門前町以外に寺内町を構築し、戦国武将と交渉出来る力を持つ信者を擁していたと考えられる。やがてこのような大寺も徳川幕府の成立で、寺内町の消滅や幕府の宗教政策により政治的な力を失った。しかし日隆聖人によって教学を伝える勧学院が設けられ、布教所の本能寺に対して学問所と定められた本興寺には教学の伝統があり、江戸時代を通じて教学者が輩出した。今日も興隆学林専門学校があって、宗門の僧侶育成の責任を負っている。

 このような本興寺には、中世の武将の禁制・書状類や近世の寺院関係文書が多数所蔵されている。今般日隆聖人五百五十遠忌を記念して『本興寺文書』の編纂を発願し、諸先生方の御尽力によって、第一巻に中世文書を、第二巻に近世文書の一部を翻刻することが出来た。近世文書については今後も続いて刊行する予定であるが、これによって法華宗宗門史や本興寺史、さらには我国の近世仏教史の不明な点が解明されることを期待している。

 開山遠忌の年に本文書が刊行され、聖人の鴻業が広く知られることを喜びとしたい。
 


第一巻
監修 天野忠幸・仁木 宏


享徳四年から寛永十八年にいたる史料を全編カラー写真・読み下し・解説付き収録する。


日隆法名授与状/日隆書状/日登書状/日与書状/日与本興寺住職定状/細川勝元書状/日承書状/三好宗三禁制/ 進藤貞治禁制 /塩川国満禁制/細川晴元禁制/伊丹親興禁制/和久房次等連署状/斎藤長盛等連署状/三好長慶屋敷寄進状/三好長慶禁制 /尼崎年寄衆連署契状/三好政生禁制 /後奈良天皇綸旨 /三好之虎禁制/細川晴元書状/三好政生書状/安宅冬康禁制/正親町天皇口宣案/六角氏家臣連署禁制/根来寺快秀禁制/日承諷誦文/室町幕府奉行人連署奉書/某禁制/室町幕府禁制 /池田勝正禁制 /日堯逆修講本尊曼荼羅/織田信長禁制/室町幕府禁制/飛鳥井雅敦書状/佐久間信盛等連署状/伊丹忠親禁制/篠原実長等禁制/三好長治禁制/木下秀吉書状案/本興寺門前百姓等起請文/荒木村重禁制/日堯書状/羽柴秀吉書状 /豊臣秀吉朱印状/石田三成書状/尼崎忠兵衛・大瀬与三右衛門連署状/伝徳川家康書状/後陽成天皇口宣案/徳川家康禁制/清正書状/戸田氏鉄禁制 /日證書状 /日遠書状/日源書状/戸田氏鉄書状/明正天皇口宣案/禁制十通写/細川晴元禁制写/徳川家康禁制写  ほか全八十一点
◎解題(天野忠幸)・本興寺の現在・本興寺歴代・第一巻関係年表



書店様向け販売促進用パンフレット(PDFファイル)



ISBN978-4-7924-0979-1 C3321 (2013.4) B5判 上製本 オールカラー118頁 本体16,000円

  『本興寺文書』第一巻の刊行に寄せて

千葉大学名誉教授 佐藤博信   
 この度、法華宗大本山本興寺の開山日隆の五百五十遠忌記念として『本興寺文書』第一巻・第二巻が刊行された。尼崎の本興寺と日隆が法華宗史上大きな痕跡を残してきたことは周知の事実である。日隆は、京都の本能寺を布教道場、本興寺を教学道場として整備し、特に教学に大きな足跡を残したといわれる。その著述は、三千余帖に及ぶという。この伝統はいまに本興寺に所在する興隆学林に引き継がれ、その先師として現貫首小西日遶師と学林長大平宏龍師が活動されていることも、承知の通りである。これは、現在の各宗門にあって希有なことで、日隆の素意が生きている証拠である。また本興寺の所在地尼崎は、中世の時代に湊として大いに栄えたので、その関係史料は、『兵庫県史』・『尼崎市史』などに紹介されて、畿内地域史や寺内町の研究に大いに利用されてきた。今回は、最新の研究成果を踏まえて新たに編集され、享徳四年から寛永十八年に至る史料八十一点が全編カラー写真・読み下し・解説付きで掲載されている。こうした体裁の史料集の刊行が時代の要請とはいえ、全編カラー写真は限りなく原本に近いものでありがたい限りである。一点一点の史料を視覚的に学ぶところは、実に大きい。内容をみると、日隆・日登・日与・日堯などの歴代のものを始め、細川・三好・伊丹・池田・秀吉・家康・三成などの禁制や朱印状など著名な人物のものが多い。それだけ尼崎と本興寺が歴史上重要な位置にあった証拠である。ただ幾多の戦乱や災害のなかで日隆の聖教類ともども現在に伝えられてきたこと自体、歴代住持と旦那たちの努力の賜物であったことを忘れてはなるまい。これらのなかで、わたしが特に興味を惹かれたのは、@永禄十一年の日堯逆修講本尊曼荼羅、A尼崎年寄衆連署契状、B元亀二年の本興寺門前百姓等起請文である。Bについては、先年本興寺の虫干会(十一月三日)の際に感激をもって拝見したものである。この署名者とその花押形の多様性は、実に興味がつきない。本興寺を支えた僧旦の研究が重要なことはいうまでもなく、それが日隆から現代に至る学僧を中心とした教学史と一体化することで、本興寺研究はさらに発展するものと思われる。本史料集は、その基礎となろう。本興寺と比翼両輪をなす本能寺にも充実した『本能寺史料 中世篇』が刊行されており、併せて検討することで法華宗研究も一段と深化することであろう。わたしは富士門流の安房妙本寺の研究を若干しているに過ぎないが、妙本寺の日安と日要の時代に本興寺と緊密な関係を持っていたことを知り、それ以来尼崎を訪ねたり本興寺を参詣したり身近な存在となった。仏縁の賜物である。中世の時代の他門との学問上の交流は、現在の想像を超えるものであった。改めて本興寺の歴史を学びたい理由である。この『本興寺文書』が座右の書となることは間違いない。
 

  戦国時代研究にも有益な一書


奈良大学文学部教授 河内将芳   
 法華宗日隆門流は、京都から西へ西へとその教線を拡大し、鉄砲伝来で著名な種子島にまで至ったことで知られている。そのさい、拠点となったのが、海沿いの津や湊など港湾都市である。とりわけ重要な拠点として知られたのが尼崎であり、そしてその地に建立されたのが本興寺であった。

 今回、その本興寺で大切に保管されてきた古文書群が『本興寺文書』として刊行され、広く公にされたことは、法華宗(日蓮宗)の歴史をまなぶひとりとして、喜びにたえない。とともに、本興寺をはじめとした関係者のみなさんのご努力に心より敬意を表したいと思う。

 『本興寺文書』第一巻は、中世の古文書群がおさめられることとなったが、その監修に戦国時代の畿内近国史研究のトップランナーとして知られる仁木宏・天野忠幸両氏があたられたことは、法華宗(日蓮宗)の歴史をまなぶものだけではなく、斯界の研究に関心をよせるものにとっても、有益な一書となろう。

 戦国時代の古文書といえば、畿内近国にかかわるものにかぎらず、年号が記されていないため年代がはっきりとしなかったり、あるいはだれがそれを出したのかさえはっきりしないものも少なくない。それを判定するためには、厳密な考証が要求されるためだが、今回の『本興寺文書』第一巻では、それらの判定が仁木・天野両氏によって、あざやかになされている。

 しかも、各古文書のカラー写真と読みくだしも合わせて掲載されており、今後の研究の進展によって、また新たな事実の解明も準備されているという点では、周到かつ誠実な本づくりといわざるをえないであろう。

 本年は、本興寺開山である日隆聖人の第五百五十遠忌の年にあたり、また、日隆聖人ともゆかりが深い大覚大僧正の第六百五十遠忌の年にもあたる。そのような記念すべき年に本書を手にすることのできる幸せを多くの人びとと分かちあいたいと思う。
 


第二巻
監修 岩城卓二・上野大輔・幡鎌一弘・三浦俊明


近世・近代文書を収載する。寺院の教団構造やその特徴を把握することから、宗派を超えて宗教史全体に益する。


本山末寺
一 両本山・塔頭八坊歴代年記 享保二〇年/二 両本山歴代略記 元文二年/三 諸末寺制法 天和二年一二月一五日〜文化一五年四月八日/四 諸末寺制法(抄出) 文政元年四月八日〜昭和一九年五月八日/五 僧徒入寺記(抄出) 明治一一年六月七日〜昭和二〇年一二月三〇日/六 遠近諸末寺名寄帳 天保一二年閏正月/七 本能寺・本興寺派寺院孫末帳 安政三年六月/八 本興寺諸末寺帳 年月日不詳/九 末寺本寺証文控 享和二年三月/一〇 両山定書末寺請状 宝永五年五月二一日/一一 諸山条目 享保三年三月一五日/一二 諸山条目 享保九年三月一五日/一三 両山定書 天明八年七月/一四 両山末寺入り許状 寛政六年九月/一五 諸山条目・両山定書末寺請状 享和二年一〇月/一六 両山定書 文政七年閏八月/一七 諸山条目・両山定書 天保一二年三月/一八 諸山条目 天保一四年三月/一九 学室定書 弘化三年二月

寺内行事
一 年中行事録 文化二年/二 年中行事録 慶応三年/三 日成上人入院式次第 宝永四年/四 日慶上人他遷化記録 享保一八年/五 宗祖四百五十遠忌両山申合 享保一四年九月/六 宗祖五百遠忌寄附控 安永八年二月/七 宗祖五百五十遠忌両山申合 文政一三年二月/八 宗祖六百遠忌両山申合 明治一二年一二月/九 御開山二百遠忌出仕依頼状 寛文二年九月二五日/一〇 御開山二百遠忌出仕依頼状 寛文二年九月二五日/一一 御開山二百五十遠忌諸末寺香奠帳 正徳三年二月/一二 御開山三百遠忌両山申合 宝暦一一年四月/一三 御開山三百五十遠忌勧化記録 文化四年五月/一四 御開山三百五十遠忌両山申合 文化九年二月/一五 御開山三百五十遠忌諸末寺香奠帳 文化一〇年二月/一六 御開山三百五十遠忌寺社願届控帳 文化一〇年二月/一七 御開山四百遠忌諸願書帳 文久三年正月

什  物
一 本興寺什物帳 延宝七年/二 長持道具入帳 明和元年六月一八日/三 数珠丸由来書 大正九年一〇月一三日/四 名刀数珠丸記 大正一〇年三月/五 国宝数珠丸記 年月日不詳

普  請
一 塔頭本宣坊普請願につき一札 享保七年一一月二六日/二 塔頭本宣坊作事につき大工差入証文 享保七年一一月/三 塔頭本宣坊普請願 享保七年一二月/四 塔頭本宣坊普請につき地形直し等願 享保八年四月/五 本興寺類焼届 文政五年/六 本興寺類焼諸願留書 文政五年閏正月/七 本興寺再建につき普請小屋仮建願 文政五年二月/八 大工職条目 寛政一二年/九 大坂手伝人働きにつき城下手伝人口上書 文政七年一一月二二日/一〇 大坂手伝人と口論につき城下手伝人御答書 文政七年一一月二八日/一一 本興寺再建普請履ぬき雨覆建願 文政八年二月七日/一二 本興寺掛塀・浴室所修復願 弘化四年一〇月五日/一三 本興寺掛塀・浴室所修復出願窺 弘化五年二月

寺  町
一 本興寺門前地地子につき言上書 寛永一二年八月一六日/二 御朱印状発給願 延宝九年六月/三 御朱印状発給願 延宝九年六月/四 御朱印状発給訴訟書留 貞享元年/五 葭島拝領願 元禄八年五月一日/六 寺町掟書 寛政一一年九月/七 御条目・寺町諸条目 元治元年七月/八 寺町組合諸条目 元治元年七月

◎口絵・解題(岩城卓二)・本興寺本能寺の末寺



ISBN978-4-7924-0990-6 C3321 (2013.4) A5判 上製本 口絵4頁・本文485頁 本体11,000円

  待望の寺院史料集に期待


身延山大学教授 望月真澄   
 鎌倉新仏教の宗派を開いた日蓮聖人の系譜を引く代表的な宗派に日蓮宗、法華宗各派がある。これらの宗派は、日蓮聖人の門弟を中心とした門流組織によって教団が拡がりをみせた。日髢蝸ャをはじめとする各門流は、門祖の教えを継承し、独自の制規を遵守して全国的な教団組織として発展を遂げている。本史料集で紹介する法華宗本門流の大本山本興寺は、室町時代に活躍した日髀辮lによって開かれた寺院であり、京都本能寺とともに日髢蝸ャの中核寺院である。よって、本興寺には開創以来伝えられてきた聖教類が所蔵されているが、これは既に『法華宗全書』として刊行されている。しかしながら、近世史料に関しては、未翻刻のままであった。法華宗本門流の近世から近代に至る歴史は、中核寺院である本興寺所蔵史料が公開されていなかったことが影響しており、未だ不明な歴史がある。今回、宗派を代表する寺院の未公開史料が体系的に翻刻されることは、法華教団史や仏教史の研究者のみならず、日本史研究者にとってたいへん有り難いことである。

 近世の本興寺史を構築する上で忘れてはならないことは、開創以来本能寺と両山一主制がとられ、住持が兼務していたことである。これは一般寺院とは異なる寺院組織であり、本興寺と本能寺は教団運営や寺院経営面で密接なつながりがある。よって、本能寺の歴史を理解しなければ、本興寺の歴史は解明できないことになる。既に本能寺では、『本能寺史料』畿内東国末寺篇、本山篇上・下、古記録篇、そして中世篇の六冊が刊行されているのでこれらを活用し、併せて本史料集に掲載された史料を読解していくと新たに発見できることが必ずあるはずである。

 法華教団史上に登場する主要寺院の中には二ヵ寺を兼務していた住持がいる。例をあげれば身延久遠寺と茂原藻原寺、池上本門寺と比企谷妙本寺である。これらの寺院の両山一主の時代は限られた時期であるが、その時期の寺院行政には特徴がみられる。本史料集には両山に関わる内容が随所に記され、収録された史料に目を通すと、法華宗寺院の教団構造やその特徴を読み取ることができる。

 最後に、本書には、寺院と寺町との関わりや尼崎地域の歴史を知るための史料が含まれている。よって、法華教団史・仏教史の研究者はもとより、関西地域をはじめとする全国の公立図書館、特に大学図書館や人文系の研究機関には常備の書として推薦する。
 

  『本興寺文書』第二巻の刊行に寄せて


日本大学法学部准教授 朴澤直秀   
 『本興寺文書』第二巻が刊行される。近世・近代文書を収載したもので、さらに続刊されるという。既刊の『本能寺史料』や、『日蓮宗宗学全書』所載の史料などに続いて、近世の法華宗勝劣派(本能寺派・本興寺派)に関する根本的史料が公刊されるわけで、誠に喜ばしい。法華宗本門流の宗門史の解明という点での裨益は勿論であるが、宗派を超えて仏教史ないし宗教史全体に益するところも大であるといえよう。言うまでもなく、確固とした個々の宗派の把握に立脚してこそ、宗派を超えた全体的・総合的な把握が可能になるからである。

 本巻から窺うことのできる論点は、多岐に亘る。まず教団機構に関しては、本能寺・本興寺の「両本寺」制度について多くを知ることができる。本能寺に対して、本興寺は寺内に修学機関「勧学院」が設けられ、学僧が集ったことに特徴があった。

 また、末寺やその住僧に関する、多くのデータを知ることができる。末寺は、地域的な集中をみながらも広範に分布しており、本史料集は末寺所在の諸地域の地域史研究にも益するところがあるだろう。宗祖や開山の遠忌、あるいは本興寺や塔頭の普請関係史料などからも、諸地域との関係を垣間見ることができる。殊に、地元尼崎城下や大坂との関係につき多くを知ることができ、都市史研究にも有益である。

 さらに普請関係史料からは、本興寺が支配の上で尼崎藩のみならず大坂町奉行とも関係を持っていたことが窺え、大坂町奉行配下の寺社行政について情報を与えてくれる。そして、寺町――宗派を超えた寺院組合――の史料も収められている。かかる寺院組合について、宗派を超えないものも含めて、従来は江戸や大坂の事例を中心に論じられてきたが、今回、地方城下町の豊富な事例が提示されることとなる。

 このように瞥見しただけでも多方面に関係する論点を含んでおり、私としては蒙を啓かれるところ大であった。続刊も、はや鶴首されるところである。
 

  監修者の一人として


 兵庫県尼崎市に本堂を構える本興寺は、応永二十七年(一四二〇)日隆によって開基された法華宗本門流の大本山である。明治四十二年(一九〇九)までは京都本能寺と両山一寺制をとり、本能寺は布教の道場、本興寺は教学の道場と位置づけられた。末寺は西国を中心として全国に広がり、近世中期には孫末寺を合わせると二〇〇ヵ寺近くを数える。

 本興寺は細川晴元、三好長慶、織田信長の禁制・書状等の中世文書を所蔵することでよく知られているが、他にも大本山寺院、諸国から僧徒が勉学に訪れた学林、尼崎藩領内の寺町に所在する寺院としての歩みが知られる近世・近現代文書も多数残されている。寺院で日々執行された行事、末寺の住職決定までの手続き、寺院と幕藩領主・檀家との関係、神仏分離をはじめ明治以降に寺院が直面した諸問題への対応等々、本興寺文書には広く近世・近代史の理解に関わる貴重な証言が記録される。

 このたび、歴史研究の発展に寄与したいという本興寺関係者の強い熱意によって、これら文書が『本興寺文書』として刊行される運びとなった。第一巻は中世文書、第二巻は本興寺の概要が知られる近世以降の文書を中心に編集され、原文書閲覧の機会が限られている中世文書は写真を掲載し、寺内町から城下町への展開が知られる新出史料も収録される。私は尼崎周辺地域の近世・近代史に関心をもつ一人として、三浦俊明氏より協力を求められて刊行に携わることになった。毎回の編集会議・校正作業に同席される貫首をはじめとする本興寺関係者の歴史研究に対するご理解には敬服しており、開山日髏ケ人五百五十遠忌の年に刊行を開始するという約束が果たせたことに安堵している。

 『本興寺文書』は順次刊行される予定である。宗教史だけでなく、さまざまな分野の研究者に活用していただきたい。
(岩城卓二)   


第三巻
監修 岩城卓二・上野大輔・幡鎌一弘・三浦俊明


本巻には、大坂町奉行所・尼崎藩から尼崎城下寺町に所在する寺院に通達された御触書の書留と、本興寺を中心に、寺町所在寺院から大坂町奉行所・尼崎藩に願い出られた願書・届の書留を収録する。
農村の御触書・願書留は多く残されており、これらの帳簿類が重要な研究史料であることは広く認識されている。本巻に収録した御触書留・願書類は、これまであまり知られていない城下町の寺町所在寺院のものであるという点で貴重である。記載内容は豊かであり、様々な論点を提供するであろう。活用が期待される。


御触書留・願書留

一 公儀・地頭御触書留 宝暦13年10月〜明和6年12月
二 公儀・地頭御触書留 文政11年7月〜天保元年12月
三 公儀・地頭・太政官等御触書留 慶応2年9月〜明治2年2月
四 願書留 宝暦9年3月〜安永7年2月
五 願書留 文化9年9月〜文政5年3月
六 願書留 文政6年11月〜文政10年
七 願書留 文政10年〜天保8年8月
八 願書留 天保15年6月〜弘化4年3月
九 願書留 文久3年12月〜慶応元年10月

  解題…………岩城卓二



ISBN978-4-7924-1044-5 C3321 (2015.8) A5判 上製本 382頁 本体9,800円

  第三巻の内容について


 兵庫県尼崎市に本堂を構える本興寺は、応永二十七年日隆によって開基された法華宗本門流の大本山である。明治四十二年までは京都本能寺と両山一寺制をとり、本能寺は布教の道場、本興寺は教学の道場と位置づけられた。

 さて第三巻には、大坂町奉行所・尼崎藩から尼崎城下寺町に所在する寺院に通達された御触書の書留と、本興寺を中心に、寺町所在寺院から大坂町奉行所・尼崎藩に願い出られた願書・届の書留を収録した。

 近世の畿内・近国では、京都町奉行・大坂町奉行等の幕府役人・役所が、大名・旗本等の所領に対して広域支配権を行使した。多様な権限で構成される広域支配は、畿内・近国における幕藩領主支配を特質付けるものである。しかし、上方における寺社支配については、中世から近世への移行期、および近世初頭を除くと、研究蓄積は薄い。

 研究の進展には、寺社の近世史料の発掘が必要となるが、幸い本興寺文書には、この研究に寄与するであろう史料が多く残されている。そのなかから、本巻には、宝暦十三年〜明和六年、文政十一年〜天保元年、慶応二年〜明治二年の三冊の御触書留を収録した。

 本興寺の御触書留によると、城下町尼崎の寺町には、大別すると、大坂町奉行と、尼崎藩の寺社奉行による二系統の通達回路のあったことが知られる。複数の系統から、発令主体・対象を異にする触が通達されることが畿内・近国の特質であり、御触書留からは、その実態を知ることができる。また、新政府が発令した触も記載されており、近世近代移行期における寺社支配の転換の一端も知られるであろう。

 願書留は、宝暦九年から慶応元年までの六冊を収録した。願書留には、僧侶の転住に関わる届が多く記載されている。僧侶の人生の一端が垣間見えるが、とくに本興寺塔頭の後住許可を藩に願い出る際に作成される由緒書には、生国・履歴が記載されていることから、どういう人々が僧侶となり、修行を積んだのかが窺える。僧侶の人生については不明な点も多いことから、貴重な史料となろう。

 農村の御触留・願書留は多く残されており、これらの帳簿類が重要な研究史料であることは広く認識されている。本巻に収録した御触書留・願書留は、これまであまり知られていない城下町の寺町所在寺院のものであるという点で貴重である。記載内容は豊かであり、様々な論点を提供するであろう。活用を期待したい。
(岩城卓二)   


第四巻
監修 岩城卓二・上野大輔・幡鎌一弘・三浦俊明


第四巻には、第三巻に引き続き、本興寺および寺町月番寺院から大坂町奉行所・尼崎藩、さらに明治新政府に差し出された願書・届等の書留四冊と、本興寺をはじめ寺町所在寺院の宗門改帳四八冊を収録する。


願書留
一 願書留 安永7年3月〜寛政12年5月
二 願書留 文政4年6月〜文政6年11月
三 願書留 天保4年正月〜天保12年12月
四 願書・書付留 慶応元年11月〜明治10年5月

宗門改帳
一 元文五年寺内宗門改帳 元文5年正月
二 延享二年寺内宗門改帳 延享2年正月
三 延享三年寺内宗門改帳 延享3年正月
四 延享四年寺内宗門改帳 延享4年正月
五 延享五年寺内宗門改帳 延享5年正月
六 宝暦一一年寺内宗門改帳 宝暦11年正月
七 宝暦一二年寺内宗門改帳 宝暦12年正月
八 明和二年寺内宗門改帳 明和2年正月
九 安永七年寺内宗門改帳 安永7年正月
一〇 安永八年寺内宗門改帳 安永8年正月
一一 安永九年寺内宗門改帳 安永9年正月
一二 安永一〇年寺内宗門改帳 安永10年正月
一三 寛政八年寺内宗門改帳 寛政8年正月
一四 寛政一二年寺内宗門改下帳 寛政12年正月
一五 文化七年寺内宗門改下帳 文化7年正月
一六 文化九年寺内宗門改下帳 文化9年正月
一七 文化一五年寺内宗門改下帳 文化15年正月
一八 享保九年本興寺所化宗門改帳 享保9年3月
一九 延享二年本興寺所化宗門改帳 延享2年3月
二〇 寛延三年本興寺所化宗門改帳 寛延3年3月
二一 宝暦一二年本興寺所化宗門改帳 宝暦12年3月
二二 明和二年本興寺所化宗門改帳 明和2年3月
二三 安永八年本興寺所化宗門改帳 安永8年3月
二四 文化七年本興寺所化宗門改帳 文化7年3月5日
二五 文化八年本興寺所化宗門改帳 文化8年3月5日
二六 文化九年本興寺所化宗門改帳 文化9年3月5日
二七 文化一五年本興寺所化宗門改帳 文化15年3月5日
二八 延享二年本興寺所化在談・引談宗門改帳 延享2年3月
二九 延享三年本興寺所化在談・引談宗門改帳 延享3年3月
三〇 延享四年本興寺所化在談・引談宗門改帳 延享4年3月
三一 延享五年本興寺所化在談・引談宗門改帳 延享5年3月
三二 宝暦一一年本興寺所化在談・引談宗門改帳 宝暦11年3月
三三 明和五年本興寺所化在談・引談宗門改帳 明和5年3月5日
三四 寛政九年本興寺所化在談・引談宗門御改帳 寛政9年3月5日
三五 文化七年本興寺所化在談・引談宗門改帳 文化7年3月5日
三六 文化九年本興寺所化在談・引談宗門改帳 文化9年3月5日
三七 文化一五年本興寺所化在談・引談宗門改帳 文化15年3月5日
三八 嘉永七年本興寺所化在談・引談宗門改帳 嘉永7年4月16日
三九 宝暦九年尼崎寺町宗門改帳 宝暦9年3月
四〇 宝暦九年尼崎寺町人数増減改帳 宝暦9年3月
四一 天明六年尼崎寺町表裏浄土宗宗門改帳 天明6年3月
四二 天明六年尼崎寺町禅宗宗門改帳 天明6年3月
四三 享和四年尼崎寺町律宗兼真言宗宗門改帳 享和4年3月28日
四四 文化元年尼崎寺町法華宗宗門改帳 文化元年3月
四五 文化元年尼崎寺町表裏浄土宗宗門改帳 文化元年3月
四六 文化元年尼崎寺町禅宗宗門改帳 文化元年3月
四七 文化元年尼崎寺町時宗宗門改帳 文化元年3月
四八 文化一一年尼崎寺町律宗兼真言宗宗門改帳 文化11年3月


  解題…………岩城卓二



ISBN978-4-7924-1068-1 C3321 (2016.11) A5判 上製本 375頁 本体9,800円

  第四巻収録文書について


 第四巻には、第三巻に引き続き、本興寺および寺町月番寺院から大坂町奉行所・尼崎藩、さらに明治新政府に差し出された願書・届等の書留四冊と、本興寺をはじめ寺町所在寺院の宗門改帳四八冊を収録した。

 本興寺が所在する寺町は、尼崎城下西部に位置する。寺町は寺院だけで構成され、独立した支配・自治の単位であった。第三巻と同じく、本巻に収録した願書留に記載される事柄のほとんどは、本興寺方丈および塔頭の住持と、尼崎藩の寺社奉行、大坂町奉行所の寺社方との間で遣り取りされた文書である。寺町月番は、各寺院のどういう願・届に、そしてどの程度、関与していたのかという支配単位としての寺町に関わる基本的な事実は、願書留の記載内容を整理することで判明すると思われる。

 明治維新によって、本興寺も近世のあり方の改編を迫られる。幕末から明治初年の願書・書付留からは、新政府が進める神仏分離や、伏見宮六代貞敦親王の連枝である日承上人が本能寺・本興寺の貫首を兼任したことから認められてきた裏菊御紋付法衣着用の禁止等々への対処が知られる。事情はわからないが、尼崎藩士が塔頭に居住していたことも記されており、新時代を迎えて混乱する本興寺や武士の様子が窺える。

 宗門改帳は、破損・錯簡・重複分を除きすべて収録した。宗門改帳は、本興寺方丈・塔頭の住持・弟子・行者・下男・門守が登録される寺内宗門改帳、前年の宗門改帳作成後、勧学院に入院した学僧=所化が記載される所化宗門改帳、在院する所化と、退院した所化が列記される所化在談・引談宗門改帳、所化を除く寺町全寺院の住人が登録される寺町宗門改帳、寺町の一年間の住人移動が記される寺町人数増減改帳、宗派ごとに住人が登録される改帳からなる。本巻に収録した文書からは、尼崎藩領における寺町と、寺町内における本興寺の位置が知られる。寺町の研究が進展することを期待したい。

 ところで、本興寺では去る十一月三日に虫干会が行われ、多くの参詣者が訪れた。アニメ化された人気ゲーム『刀剣乱舞』の主要キャラクターが、宝物殿に収められている太刀「数珠丸」をモデルにしているからである。現代的な意味でも、魅力ある寺町であることも付記しておく。
(岩城卓二)   


第五巻
監修 岩城卓二・上野大輔・幡鎌一弘


法華宗本門流の大本山・本興寺にのこされる三五一点を翻刻。また、幡鎌一弘氏執筆の「本興寺文書を読む―本門佛立講開講をめぐって―」も収録。本山本興寺(本山  寄進・供養  所持地・借屋家賃勘定  土地売買・譲渡証文  質物・本物返証文  金銀借用証文  借屋・奉公人請状)・末寺・眞如庵の三部構成。


本山本興寺
本山
寄進・供養
所持地・借屋家賃勘定
土地売買・譲渡証文
質物・本物返証文
金銀借用証文
借屋・奉公人請状

末  寺

眞 如 庵


本興寺文書を読む ―本門佛立講開講をめぐって― …………幡鎌一弘
解  題


ISBN978-4-7924-1095-7 C3321 (2019.1) A5判 上製本 518頁 本体13,000円


 『本興寺文書』第五巻、近世文書の四が刊行されます。今回は本興寺自体と全国の末寺に関わる文書が含まれております。

 この中で当山に多数の「土地売買・譲渡証文」「質物・本物返証文」「金銀借用証文」等が存在したことに驚いております。それはこれだけの証文が存在することは、それぞれの証文に対して金銭が支出されたはずで、当時の本興寺はそれほど財政的に余裕があったのかという疑問です。即ち戦国時代の本興寺は多数の武将から軍勢が寺に立ち入らない保証である「禁制」を獲得出来たことから、可成りの財力と武将と交渉する力を保持していたことが推測されますが、関ケ原合戦の後に幕府によって寺地を現地に移転されて以後の当山は、従前所有していた寺内町を失い門前町も縮小され所有資産も激減したと考えられるからです。また今回は寺外に存在していた当山関係の近世文書を取得して翻刻収載されましたが、資料収集について多方面に目配りすることの大切さに気付かされました。

 さらに本巻には幡鎌一弘先生による「本興寺文書を読む―本門佛立講開講をめぐって―」と題する論考が加えられました。佛立講開導日扇の行動は本宗宗門史の中でも無視出来ぬ事柄ですが、本稿では文書の読解から日扇の教化親である随宏院日雄について、門末寺院住職としての動向や日扇との関係を紹介し、さらに近世後期において富士派・八品派においては上総国細草檀林を表檀林、山城国大亀谷檀林が裏檀林とされ、本興寺内の尼崎檀林は八品派の檀林とは認められていなかったが、本興寺は種子島・屋久島・永良部島との結びつきを説き、薩摩・大隅・日向三か国の末寺の子弟が尼崎檀林で修学することを願い出て認められたということが明かされました。さらに日扇は尼崎檀林への入檀を拒まれたが、その理由として泉日恒『佛立開導日扇聖人―その思想と行動―』では、@日扇の才能が万人に優れていたので、人物に乏しい檀林では教育出来ないA日扇を指導した日肇・日耀は宗風革新論者であったため、日扇も同類と見て警戒された、としております。しかし実は、尼崎檀林へは前記の三か国以外の入檀は認められず、この禁を破れば檀林の存続も危うくなり、これを恐れた所化僧が入檀を拒否したことにも一理あるとされて通説の不備を指摘しておられます。今回諸先生方の御尽力によって三五一通の文書が翻刻されましたが、未だ所蔵の近世文書の一部であり、未翻刻の文書にどのような記事が記されているのかと期待が増しております。
合掌
大本山本興寺第百三十四世貫首 小西日遶   


第六巻
監修 岩城卓二・上野大輔・幡鎌一弘


法華宗本門流大本山・本興寺にのこされる近世文書の中から『日記』6冊を翻刻。当時の本興寺や幕府の宗教政策が明らかに。また解説と索引も収録する。



一 元禄八年日記   元禄八(一六九五)六・一一〜元禄九(一六九六)四・一一
二 元禄一三年日記  元禄一三(一七〇〇)三・一五〜宝永三(一七〇六)一〇・二六
三 享保六年日記   享保六(一七二一)九・一五〜享保一一(一七二六)一一・九
四 享保一二年日記  享保一二(一七二七)正・元〜二・二四
五 享保一三年日記  享保一三(一七二八)正・元〜一二・二九
六 元文五年日記   元文五(一七四〇)正・元〜一二・二 五六

解題(幡鎌一弘)
索引(寺名 僧侶・庵・院・塔頭名 人名 件名)



ISBN978-4-7924-1471-9 C3321 (2021.10) A5判 上製本 414頁 本体11,000円


 『本興寺文書』第六巻、近世文書の五が刊行されます。今回本興寺近世文書中『日記』の六冊が翻刻されました。各日記を読むことで当時の本興寺や幕府の宗教政策が明らかになって参ります。

 例えば、「元禄八年日記」の七月朔日と八月五日には大坂の豪商天王寺屋の法要の記事があります。現在当山本堂に奉安されている諸尊像は、制作された時には色彩も華麗で豪華な姿であったろうと想像されますが、これらの仏像は、釈迦牟尼仏像の背面に「施主 大坂天王寺屋弥右衛門元禄八乙亥年八月八日」と墨書されており、『日記』の記事と同時期に天王寺屋弥右衛門が寄進したものです。さらに多宝如来・上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩・不動明王・愛染明王・毘沙門天・広目天・増長天・持国天等の諸像も同時に弥右衛門が寄進しております。これだけ多数の諸像を一度に寄進出来た天王寺屋の財力が想像されますが、さらに当山祖師堂奉安の日蓮聖人像の背面にも「再興の施主 大坂天王寺屋五兵衛尉 作兵衛尉 慶安五年十月十一日」とあり、また開山堂内日髏ケ人像を安置する台座にも「願主 大坂天王寺屋庄兵衛□重春 元禄九丙子年七月廿五日」と記されていることから、『日記』の記事以外でも天王寺屋が本興寺を外護した事実が証明されます(因みにこれ等の諸像は文政五年に本堂・祖師堂が類焼の際に避難して今日に伝来したものです)。

 また当山の什物について、元禄十五年に伊東三郎兵衛が日與上人筆『法華和語記』を寄進したことへの受領証が見えますが(五七頁)、現在当山格護の『法華和語記』の箱書に「寄附摂州尼崎本興寺日與上人真蹟、法華和語記二冊元禄十五歳(中略)大坂伊東三郎兵衛」とあることと一致し、『日記』の記述が正確であることが知られます。また当山は文政五年(一八二二)隣接する全昌寺からの出火で本堂や諸堂を焼失しましたが、この火災以外で『両山歴譜』第三十九世日慶上人の項に享保四年(一七一九)本堂再建を発願したとの記事があります。しかし何故この時に再建が必要となったのか理由は不明でありました。ところが『日記』(一一二頁)には享保年間のこととして、本堂再建の浄財を募る書状案が記載され、文中に「当寺本堂及大破千部法用等難務」と本堂が大破したとあることから、何らかの自然災害によって被災したことが想像され、これまで不明であった当山の沿革について新資料を提供してくれました。このように過去の日々を記録した日記は大切な史料ですので、読解には日時を要しますが今後も続けて刊行して参ります。
合掌
大本山本興寺第百三十四世貫首 小西日遶   
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。