〈日常〉のなかの近世
西岡直樹著 


三〇石の儒医の日記『家乗』から、平々凡々な一個人の恋愛や学問、出仕(就職)、家族、娯楽の悲喜こもごも、元禄の日々を追体験する。




■本書の構成

序 小さきものの物語にむけて ―読者のみなさんへ
    
大きな問い ―〈日常〉のなかの近世/小さな窓 ―石橋生菴の幸福/糸口としての『家乗』 ―日記にむきあうということ

第一部 日記と〈日常〉

第一章 日記のなかの〈日常〉
  はじめに/『家乗』という日記/日記に書かれた〈日常〉/結びにかえて

第二章 日記を書く〈日常〉
  はじめに/刻まれた日記の「一日」/一日の生成 ―日々を切り取る、そのしかた/書きつづける日々/結びにかえて

第二部 〈日常〉のなかの近世 ―石橋生菴の日々

第三章 恋する日々
  はじめに/もう一つの記号 ―恋の記録/沈黙の重さ/結婚前夜 ―書き留められた六年/結びにかえて

第四章 出仕への道
  はじめに/出仕の向こう側 ―一七世紀後半の三浦家家臣団/出仕への道/結びにかえて

第五章 寺参りの位相
  はじめに/「死」と向き合う/日々のなかの寺参り/仏像・霊宝への眼差し/結びにかえて

第六章 夫婦の絆
  はじめに/日記のまざざしと家室/夫婦の絆/結びにかえて

補章 一七世紀後半における一下級武士の芸能享受の位相 ―紀州藩家老三浦家と石橋生菴
  はじめに/紀州藩陪臣石橋生菴とその日記『家乗』/『家乗』に書き留められた芸能記事 ―その全体像と芸能享受の裾野/紀州藩家老三浦家の芸能享受 ―その全体像と享受のありかた/石橋生菴の芸能享受 ―その全体像と享受のありかた/貞享三年城下町和歌山の芸能享受/おわりに

結び 石橋辰章=生菴の幸福 ―出発点としての個の〈日常〉
  賀するとき― 一七世紀後半紀州武士社会の「幸福」/生きることの節目 ―武士社会・家・私/辰章=生菴の「家」 ―規範・自覚・認識・生成/溶け合う「私」・溶け切らない「私」 ―夢・恋・寺参り・日記/小さきものの物語 ―〈個〉と〈全体〉の通路を求めて


 初出一覧 あとがき




  ◎西岡直樹
(にしおか なおき)……1954年滋賀県生まれ 同志社大学文学部教授




ISBN978-4-7924-1519-8 C3021 (2023.6) A5判 上製本 390頁 本体11,000円

  
初分析江戸期武士の「恋する日々」 ―紀州三浦家石橋生菴の再デビュー―
和歌山大学名誉教授 藤本清二郎  

 『家乗』は芸能史研究の希有な記録として、土田衞氏を初め広く利用なされてきた日記である。記録内容が早くから注目された。歴史学界では、柴田純氏によって武家社会の日常生活記録として全国に紹介され、有名となった。残存史料の少ない紀州藩研究にとって不可欠の武家史料として利用されてきたが、くずし字は得意とするものの、漢文体で書かれた日記『家乗』は近世史研究者にとって、取付きにくく、また下層武士、家老三浦家の儒医(陪臣)石橋生菴自体への注目は低かった。

 ところが本書の著者西岡直樹氏は『家乗』に付与されていたイメージを根底から覆した。著者は『家乗』・石橋生菴をまるごと料理した。心性を含め記録者の意図を緻密に分析、紹介した。三〇〇年の時を超えて『家乗』の筆者石橋生菴は、著者によって心のひだまで解明されて、裸にされてこの世に放り出された、との謂いは著者の本意とするところではないであろうが、一読すると、目の前に石橋生菴が和歌山城に登城している姿が彷彿とし、その心が透けて見えてくる。三〇〇年前の一人の武家をまるごとみせてくれる。

 まるごと料理の作法は実に行き届いており、『家乗』を記録者に寄り添いつつ内在的に、石橋生菴の内面を完膚なきまで詳細に分析している。日記が、書かれた時期や、筆者の社会的な地位や家族関係を説明するのは当然として、「(原)日記」があり、三浦家出仕以前については「編修」「修整」のあることを見抜き、日記の書かれ方、特質・変化、そこに見える心性の特徴・変化をとらえている。

 指導勢力に属しているわけでもない武家(人物)を追いかけるのは、書のタイトルのように「〈日常〉のなかの近世」を捉えるためである。これまで多くの「日記」を用いた研究が、一つには便利な歴史記録の記事を活用する態度であり、また記事から社会の動向や仕組みを組みたてる態度であり、また日記筆者自身の人物像を描くという態度であった。

 しかし、著者は日記記事から、筆者の「日常」である「恋する日々」「出仕への道」「夫婦の絆」などを取りあげている。「日常」についての盲点を押し出し、人の生きた姿、生活の全てを俎上に載せているが、なかんずく「恋する日々」をトップバッターに持って来るという大胆さによって、著者の主張、本書の特質を浮き立たせ、頷かせることに成功している。すなわち「日々」の記事を丁寧に追うことで、武家社会に生きた、一人の武士のありのままの姿を捉え、武家社会を描くことに成功しているのである。

 本書のタイトルは一見文学研究に見えるが、れっきとした社会史・生活史・個人思想史等の内容を持つ歴史学研究である。江戸期の生活史や芸能史に関する宝庫であり、著者は日記記事を網羅して表を作成し、丁寧な注記を施している。武家社会に関心を持つ研究者・読者はもとより、江戸時代に関心を持つ読者・図書館に購入をお薦めする。紀州藩研究にとっては必見の書である。


※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。