■大内と幕府 毛利と織田 境目地域の領主連合
岸田裕之著 


中国地域は、東部に赤松氏が入り込み、西部には大内氏、その中間地域となった備後・安芸・石見三国は境界領域となった。その「境目」では領主連合が形成され、相互に緊密な関係を保ちながら展開した。本書は、京都政権の列島支配が不均質であった時代に現われた歴史的な地域像の解明をねらい、時々の勢力の動向、戦時下において郷村の名主・百姓らがおかれた状況等々について、自然地形や交通路などにも留意しながらまとめる。




■本書の構成

第Ⅰ部 大内氏・山名氏と室町幕府

第一章 室町幕府・守護と荘園
  はじめに
  一 幕府の政策と荘園
  二 人・資源の動員と荘民の意識
  おわりに

第二章 安芸国人一揆の形成とその崩壊
  はじめに
  一 山名満氏の安芸守護補任と国人一揆の形成
  二 守護山名氏利の石見国支配
  三 幕府・守護側の動向と国人一揆の崩壊
  おわりに――一揆の二つの面の統一的理解とその「崩壊」という評価について

第三章 芸石両国内における領主間紛争と書違
  はじめに
  一 守護山名氏の石見国支配と国人両主
  二 「約束之書違」がもつ毛利氏の歴史
  おわりに

コラム 「書違」と使用文言 ―「奉公」から「申談」へ―


第Ⅱ部 大内氏から毛利元就へ

第四章 高橋氏と芸石国人領主連合
  はじめに
  一 高橋氏一族とその領域
  二 石見国人領主の連合と高橋氏
  三 永正九年の安芸国衆契約と高橋氏
  四 高橋氏の滅亡と毛利氏領主制の進展
  おわりに

第五章 大内義興の死と備芸石の動乱 ――享禄二年の安芸松尾城の高橋氏攻めと毛利元就――
  はじめに
  一 松尾城攻めと盟主毛利元就
  二 享禄三年五月説とその問題点
  おわりに

第六章 陶隆房の挙兵と毛利元就 ――桂元昭氏所蔵の大友氏年寄連署書状の意義――
  はじめに
  一 桂元昭氏所蔵の大友氏年寄連署書状
  二 事件の経過と毛利氏の役割
  三 大友氏年寄連署書状の意義
  おわりに

コラム 萩藩編纂事業と陶氏関係文書


第Ⅲ部 浦上氏から宇喜多直家へ

第七章 岡山県地域の戦国時代史研究 ――その課題と方法――
  はじめに
  一 大河からの視座
  二 大名領国の「境目」地域論
  三 中世領主と池田氏の国替
  おわりに

第八章 浦上政宗支配下の備前国衆と鳥取荘の遠藤氏
  はじめに
  一 遠藤家の系譜
  二 浦上政宗文書の翻刻紹介
  三 備前国衆の動向と鳥取荘
  おわりに

第九章 備作地域の戦国時代と中世河川水運の視座
  はじめに
  一 「新出沼元家文書」の翻刻紹介
  二 沼元氏の活動と性格
  おわりに

コラム 毛利元就と戦争


第Ⅳ部 毛利氏と織田氏

第一〇章 戦国最末期の備作境目地域における戦争と郷村秩序
  はじめに
  一 備中国宮内村の半納と郷村衆中
  二 岡元良の郷村調略
  三 清水宗治の地位と権限
  四 原文書から考える主従間の意識
  おわりに――宇喜多氏「国家」の成立は

第一一章 因伯地域の戦国最末期史 ――潟湖の領主・山田重直――
  はじめに
  一 山田重直の警固活動
  二 中世の倉吉平野と山田重直
  おわりに

第一二章 安芸国衆の人返協約の発展と毛利氏の分国掟
  はじめに
  一 毛利氏家中家臣間協約の成立
  二 二国衆間協約の成立
  三 多数の国衆間協約の形成と領域内規定
  四 毛利氏の分国法令
  おわりに
  「人沙汰」補考

コラム ことばと歴史観


第Ⅴ部 毛利氏と秀吉政権

第一三章 戦国大名の自己決定権の喪失と「天下」のもとの宇喜多氏「国家」
  はじめに
  一 戦国大名の自己決定権の喪失
  二 「天下」のもとの宇喜多氏「国家」
  おわりに

第一四章 備後国相方城と毛利氏 ――『八箇国御時代分限帳』を読む――
  はじめに
  一 品治郡における中間衆の給分
  二 備中国山陽道沿いの一門・国衆領
  おわりに


第一五章 備中国と毛利氏 ――『八箇国御時代分限帳』を読む――
  はじめに
  一 境目地域と領界
  二 『八箇国御時代分限帳』を読む
  おわりに

コラム 太元帥明王画像と毛利輝元




  ◎岸田裕之(きしだ ひろし)……1942年岡山県生まれ 広島大学名誉教授 文学博士



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ISBN978-4-7924-1521-1 C3021 (2023.7) A5判 上製本 406頁 本体9,500円
 京都に足利幕府が樹立されて以来、その輔佐の任にあった細川氏は、播磨国の赤松氏と連携してその勢力を西へ向けて拡大する。

 西にあった国衙在庁系の大名大内氏や領主層らは、歴史的に東アジア社会を注視しており、貿易・交流を積極的に進めた。そしてそれに連動して国際性豊かな流通経済は、個別大名・領主らの権力編成を越えて広域的に展開した。海に国境がない時代に、そうして東アジア社会との海の道を確保する海洋領主的なあり方は、彼らの強い自立性を支えた。そしてそれは、東アジア規模で考えると、京都への求心性と同様に、東アジア社会への強い求心性をもっており、それがまた京都からの遠心性を推進し、京都政権の全く不均質な西日本地域支配を現出したのである。

 そのため中国地域は、東部に赤松氏が入り込み、西部には大内氏、その中間地域となった備後・安芸・石見三国は境界領域となった。その「境目」では領主連合が形成され、相互に緊密な関係を保ちながら展開した。

 この境目は、幅である。それは時々の政治・軍事情勢によってたえず移動した。東へ西へと。最終的には本能寺の変で織田信長が死没して毛利輝元と羽柴秀吉の間で備中国を領界として線引きされ、つづいて秀吉が「天下」のもとに戦国大名毛利氏「国家」を統合したことによって、境目はその固有の機能・特性を喪失した。

 本書は、限られた地域を事例としてではあるが、京都政権の列島支配が不均質であった時代に現われた歴史的な地域像の解明をねらった。その地域性に政治的・軍事的な有り様が強く反映されていることに鑑み、時々の両勢力の動向、戦時下において郷村の名主・百姓らがおかれた状況、そしてまた境目において盟約した領主層が領主制を安定させるために歴史的に築き上げた地域支配秩序のあり方等々について、自然地形や交通路などにも留意しながら論述したものをまとめた。
 (本書「序」より)
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。