読み癖注記の国語史研究
遠藤邦基著
本書は、中世から近世にかけての古今集・伊勢物語・源氏物語・百人一首や抄物・謡曲さらに仏典などの講義の聞書類や注釈書に残る「読み癖」注記を著者は解釈的音韻論の立場から、当時の発音のまま読まないことを示すための注記だと積極的に仮説し、文字と音韻といった国語史的観点から豊富な事例と柔軟な文脈解釈による検証を実践し、「読み癖」は動的な国語史を構成する貴重な資料であることを実証する。
ISBN4-7924-1373-7 (2002.10) A5 判 上製本 410頁 本体9500円
■本書の構成
第一章 清濁と読み癖 一 清濁の関係/二 濁音の音感/三 清濁の認識
第二章 音韻現象と読み癖  一 連声の読み癖―増価意識―/二 連声の読み癖―表現効果―/三 四つ仮名の読み癖/四 開合の読み癖/五 拗音の読み癖
第三章 読み癖と表記意識  一 表記の規範と読み癖/二 読み癖と改読/三 音便の読み癖/四 振漢字と読み癖/五 句読と読み癖
第四章 読み癖注記の周辺  一 促音の二字表記/二 撥音の専用仮名/三 語頭鼻音の表記法―うめとむめ―/四 「梅」の仮名づかい/五 特殊音節の表記法
解釈的音韻論の極致
大阪教育大学教授 神尾暢子
 遠藤邦基氏の待望のご著書、『読み癖注記の国語史研究』が、刊行された。

 音韻論は、極度に難解だというのが、一般的な通念である。だが、著者が、前著『国語表現と音韻現象』(新典社。平成元年七月)において提唱された、「解釈的音韻論」によって、その印象は、大きく改変されたのではなかろうか。作者の特性、資料の時代的および社会的な質、さらには、文脈などまで視野にいれた、音韻現象に対する懇切丁寧な説明を通して、音韻論の可能性を提示されたことは、記憶に新しい。まさに、画期的な方法の登場であった。
 そのご著書では、「読み癖」の外貌と国語史的価値について、「読癖注記と史的解釈」、および「読癖注記と表記体系」との二章で、論述されている。
 蛇足ながら説明すれば、「読み癖」とは、中世から近世にかけての、古今集や伊勢物語や源氏物語、百人一首などの講義の聞書、あるいは、謡曲などの実演のための資料などに見える、文脈の解釈や語義の決定に関与しないような注記をいう。
 こういった「読み癖」注記は、従来、故実読み――過去の言語の痕跡、あるいは、一部の集団の特殊な読みの痕跡――などと指摘される程度でしかなかった。
 それに対して、著者は、「解釈的音韻論」の立場から、「読み癖」注記は、当時の発音のまま読まないことを示すための注記だと、積極的に仮説し、文字と音韻といった、書くことと読むこととに関わる国語史的観点からの見識と、豊富な事例と、柔軟な文脈解釈による検証を実践する。前著で確立された方法の必然的展開が、書名「国語史研究」に顕現している。
 本書の最大の魅力は、この、「解釈的音韻論」という研究方法にある。遠藤音韻論といっても、過言ではあるまい。俗な比喩で恐縮だが、ヴァン・ダインの推理小説に登場する名探偵ファイロ・ヴァンスが駆使した方法に酷似する。動機には拘泥せず、周囲が看過する微細な痕跡の特性に着目して仮説をたて、それに関わるすべての事象を検証し、犯人の性格を想定する方法である。仮説検証によって、難事件を解決するのである。
 その魅力の一端は、「スミテヨム/ニゴリテヨム」という清濁を区別する「読み癖」に対する解釈からだけでも、容易に推測しえよう。
 濁音専用仮名の不在は、清濁の区別が曖昧だったからである。にもかかわらず、その区別に拘泥するのは、区別を承知することが、知的ステータスだったこと、濁音には減価意識があったこと、さらに、清濁を厳密に区別する一面もあったことまでを指摘してある。この事例だけでも、「読み癖」は、動的な国語史を構成する貴重な資料だと理解できよう。
 重厚な本書だが、謎解きの魅力に引き込まれて、ついつい、読破してしまう。「解釈的音韻論」の極致である本書の購読を、遠藤音韻論に年来心酔する立場から、ぜひにと、おすすめしたい。