実録研究
−筋を通す文学−
高橋圭一著
文学史に忘れられていた実録が今鮮やかに蘇る。実録の世界の住人達……大久保彦左衛門、真田幸村、後藤又兵衛、水戸黄門、由井正雪、原田甲斐、妲妃のお百……。実録は江戸時代に貸本屋を介して最もよく読まれ、講釈の種本となって誰もがストーリーを知っていた作品群である。本書は実録全般を対象とした初の学術書であり、実録を求めて全国を博捜し、実録の背景となった社会情勢を探り、実録とその主人公が時代に連れて変容してゆく跡をたどった、先駆的業績である。
ISBN4-7924-1374-5 (2002.11) A5 判 上製本 480頁 本体11,000円
■本書の構成

T 『世間御旗本容気』の背景/実録「秋田騒動物」攷―馬場文耕作「秋田杉直物語」中心に―/板倉修理の刃傷/文耕著作小考
U 実録「田沼騒動物」の成立と変遷/宝暦事件・明和事件の実録/実録「加賀騒動物」の諸相―「北雪美談金沢実記」以前―/「浄瑠璃坂仇討」の実録/『金氏苛政録』について/『北海異談』について―講釈師の想像力―/付論 読本と実録/伊達の対決―実録「仙台萩」攷―/『伊達鑑実録』と「伊達厳秘録」と/付論 実録と演劇―「伝奇作書」から―
V 彦左の変身―実録「大久保武蔵鐙」を中心に―/豪傑 後藤又兵衛/実録の流れ―妲妃のお百―
あとがき/索引
高橋圭一君の「実録研究」を推薦する
京都大学名誉教授・花園大学客員教授 浜田啓介
 著者高橋君は近世実録研究の開拓者の一人である。今その最前線に立っている。
 実録の研究の重要性は早くから提唱されており、近世文学研究者一般の認識であった。しかしおいそれと着手実行できない領域であった。著者はそれに挑戦して一つの達成を見た。この本は実録全般を研究対象とした初めての学術書である。それがどのように困難な領域であるかは、本書に就いて明らかであろう。ある事件の一つの実録作品A1を手にとるとする。その本は写本として、何本もあるいは十数本もどこかに存在している。学術的に究めるためには、それらを可能なかぎり見るべきである。次にその同じ事件・騒動を扱った他の次々の実録作品A2A3…を全て追求しなければならない。同じ事件の他の次々の実録A2A3…には、それぞれにまた多数の原本が有って、それらを手をつくして捜索しなければならない。それに史料・準史料類が加わる。これらの資料追求には、第一にその当所の資料館、図書館に就いて行い、各地の図書館・大学さらには個人蔵書者の協力を必要とする。以上は実録研究の基礎的努力である。次にその各実録作品A1A2A3…の発展変化の有様を比較検討して行く。これが著者の仕事の核心である。同時にこれら実録と相互に影響関係を持つ浄瑠璃・歌舞伎、乃至は小説について留意を怠ってはならない。このようにしてやっとある一つの騒動の実録を解明することが可能になる…と言いたいところだが、この上にもう一つの大きな視点が加わるのである。それは近世の歴史紀談・軍談書・実録全体についての知見である。本書の実録研究にはそれら総体についての知見が一つの実録作品の解明に投影されている。そうして、次の事件の実録B群に、またC群にと進むのである。
 本書の著者は、それらをすべて手をつくして行った上で、その細密さを表に出さないで、得た結果に従って能率よく、ぐんぐん書き進めて行く。A1A2A3…の関係は明快に浮かび上がる。先駆的業績であるからこそ、こういう記述方法をとる事ができた。だからして本書によって、十指に余る有名話題の実録の全容を伺う事が可能なのである。この点でも本書は実に得難い本である。この後、学界においては、書誌的検討や史実との綿密な比較など、一層細部にこだわり、細密さ自身を開示しなければならない専門的研究の時代が来よう。それもまた、当然の学術進歩の道程なのだが。
実録研究の画期的収穫
佛教大学教授 長友千代治
 実録は江戸時代一番よく読まれた本である。それは貸本屋が大字の写本に作らせ、読者に配達して廻った。いわゆる貸本番付、明治四年「和漢軍書小説貸本競」同十四年「和漢西洋之群書(貸本競)を見ると、和書は実録を含め、漢書は通俗物が東西の三役・前頭をあらかた占めている。したがって最も面白い読み物実録は、同じ題材を取り上げ、生成発展しながら、次々に作られていく。それは史実そのままではないが、巷説や未刊の書物に根拠を得て、嘘の少ない読み物として作られているのである。
 このように実録は増幅され、内容は変容しても書名は元のままのことがあり、内容は変容せずに書名だけが変る場合もある。この厄介な書写本および関連する諸資料を、著者は日本全国の図書館等に博捜し、必ずしも整斉とは成立していない書写本を解読の上、内容を検討し、比較・影響関係を、明晰に追求している。例えば本文だけで、秋田騒動物では十四部、仙台萩では十九部といった具合であり、これに無量の関連資料や記録を援用、諸写本間の生成展開を精深に解明してみせるのである。
 著者は著者の分析に加えて、それは必ずしも本格的な研究とは言えないものも多いが、古い研究新しい成果に細大漏さず目を配り、その実録が情報をどのように収集し、史実をなぞってどのように成立したか、その生成過程や他本への影響関係を解明しながら、実録の背景としての社会情勢・様相を探り、現実社会を反映したり諷する内容もあったことを明らかにしている。このように実録の特性や作者の歴史認識も検出してみせ、この研究書を実録同様おもしろく通読させる要因にしているのである。
 本書は、著者が一意専心、十数年をかけて本格的に取り組んできた成果であるが、今後の実録研究は本書を原点として出発することになるであろう。近世の文学研究者はもとより、歴史学研究者、さらには広く江戸時代に興味のある一般読者にも喜んで迎え入れられると確信する。敢えて言うが、著者の誠実で着実な研究態度と方法は模範的であり、研究の尊さ、楽しさを、これほどまでに教えてくれる本は極めて稀である。