大晦日を笑う『世間胸算用』
西鶴を楽しむC
広嶋 進著


『胸算用』を楽しむ新たな手引き
早稲田大学文学部教授 谷脇理史
 『世間胸算用』は西鶴の到達点、最晩年の傑作だという評価は、現在広く認められている。が、これまでの評価は、作中の一部の短篇に焦点をあて、大晦日を生きる「中下層町人たちの悲喜劇」という側面を強調することによって生まれて来たものであった。もとより西鶴作品の多くは短篇の集合によって出来上っているから、その中の数篇や一部の注目すべき側面に焦点を当てて論じかつ評するのは致し方のないところでもあったのだが、それによって作品全体の把握が、時に歪んでしまうこともありうるわけである。
 『胸算用』のこれまでの評価にも、そのような歪みはなかったのかどうか。
 西鶴町人物への新たな読みを示した『西鶴探究―町人物の世界』(’04・7ぺりかん社刊)の著者でもある広嶋進氏は、『胸算用』全体を幅広く押さえ、二十の短篇を具体的に読みときながら、それがこれまで云われるように「中下層町人たち」のみを取りあげているわけではなく、「悲喜劇」といったあり方の短篇ばかりではないことを明確にして行く。そして、広嶋氏の綿密・穏当な作品全体の読み直しによって『胸算用』は、大晦日を生きる町人の種々相が網羅的・対比的に浮かび上る作品、同時に種々の笑いが多様に生み出されている作品として、新たな相貌を備えて読者の前に提示されることになる。それが本書「大晦日を笑う『世間胸算用』」なのである。西鶴の最高傑作とされる『胸算用』の面白さ・可笑しさを、より一層楽しむための新たな手引きが誕生したことを喜びたい。
 『胸算用』は本来、西鶴の作品中でも会話文、口語体の使用が多く、読みやすく馴染みやすいものとして知られている。が、もはや元禄の時代ははるかの昔、現代の読者には解りにくい文章や風俗用語も少なしとはしないであろう。その点を配慮して本書は、引用したすべての原文の後に口語訳や略注を加えている。これは、「西鶴を楽しむ」シリーズ@〜Bでは試みなかったことではあるが、この口語訳によって本文の理解がより深まることは確実、『胸算用』を楽しむ上で大いに役立つことになるのではないかと思っている。




西鶴作品のおかしさ、面白さを追求する好評シリーズ
@谷脇理史著・『好色一代女』の面白さ・可笑しさ

A谷脇理史著・経済小説の原点『日本永代蔵』

B谷脇理史著・創作した手紙『万の文反古』

別巻@谷脇理史著・『日本永代蔵』成立論談義

DE杉本好伸著・日本推理小説の源流『本朝桜陰比事』

別巻A谷脇理史・広嶋進編著 新視点による西鶴への誘い




ISBN4-7924-1390-7 C0395 (2005.4) 四六判 上製本 290頁 本体2800円
■本書の構成
一 「平太郎殿」  『世間胸算用』の発見
二 十八間口の元大商人と長屋の貧民 大晦日の大坂・京のパノラマ(1)
三 始末屋の隠居と吝嗇家の隠居 大晦日の大坂・京のパノラマ(2)
四 金を貸す人と借りる人 大晦日の大坂・京のパノラマ(3)
五 京都の分限者と中層町人 大晦日の大坂・京のパノラマ(4)
六 桟敷席と土間席、母乳と摺粉 巻三、大晦日の京都と伏見
七 悪口祭りと身の上語り 巻四、大晦日の八坂神社と乗り合い船
八 貧者の品々と金持ちの素質 巻五、大晦日の夜市と寺子屋

都市民衆の生活を活写
大阪市立大学大学院文学研究科教授 塚田 孝
 「西鶴を楽しむ」シリーズの1冊として、広嶋進さんの『大晦日を笑う『世間胸算用』』が刊行される。本来、文学などには疎い私ではあるが、近世大坂の都市社会史を勉強していることもあって、読者の代表としてみなさんより先に著者に導かれて『世間胸算用』を楽しませていただいた。
 『世間胸算用』は、一年間の収支総決算の日である大晦日を人々がどのようにのりきるかの悲喜劇を五巻二十章にわたって活写した短編集である。著者は、西鶴の面白さを西鶴自身に語らせるべく、取り上げる作品は、まず部分ごとに原文を収録し、そのていねいな現代語訳を付す。そして、全体の位置づけや細部の留意点などの解説を加えながら、通読すると『世間胸算用』の全体像が浮かび上がる仕掛けになっている。誰の行為であり、誰の言葉なのかが注意深く訳されており、とてもわかりやすい。
 著者は、『世間胸算用』は中下層町人に共感をもって書かれた作品ではなく、読者として上層町人を想定しつつ、上層、中層、下層のすべての階層の、言い換えれば、貧と富が二極化し、固定化した商人たちの現実を総体として描こうとしたものと評価する。その中でも、大坂を中心として八章全体で貧から富までのパノラマを描く巻一・二と、各章ごとに地域を変え、その内部での貧と富の対立を示す巻三以降で趣向が変化していることが指摘される。また、作品に含まれる笑いも、哄笑、冷笑、共感的な笑いと多様であり、単純ではないことが示される。
 こうして著者に導かれて読んでいく中で、私にとって興味ひかれる点が多々あった。上層町人の娘の嫁入りに敷銀(持参金)がものをいう件りでは、そう言えば、十七世紀半ばの大坂で、死んだ女房が持ってきた敷銀や衣類(嫁入り道具)の相続を、子供の有無や男女の別でどうするかという詳細な町触があったなと思い出す。その持参金品は、実家に返される場合もあったのだが、この町触の背景が窺われて興味深い。年玉の銀を無くした隠居婆が、山伏に祈祷を頼んでいる件りでは、十七世紀の勧進宗教者の中核に山伏が位置していたことを思い出す。山伏の民衆世界での活動はこんなふうだったのかと納得するのである。例をあげればきりがないが、都市民衆の生活を活写した『世間胸算用』とその全体を読み解いた本書は、都市社会史としても興味が尽きないものであった。


※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。