切支丹信仰と佐賀藩武士道
筝曲「六段」の歴史的展開
伊藤和雅著


佐賀藩でキリスト教布教が行われた折、鍋島氏が生糸利権を握るイエズス会でなく、『神学大全』のトマス・アクィナスや宗教裁判官を輩出したドミニコ会と協調したことに、有田焼開発や領民への「仁政」志向等、竜造寺氏の重臣から佐賀藩主へと上り詰める道程で示した姿勢ともども一種の真摯さを認める一方、殉教の際に唱和されるクレドの箏曲「六段」への密かな影響を見出す。神への信仰と主君への奉公の同質性を「葉隠」に象徴される佐賀藩武士道思想と関連させて洞察する。




■本書の構成

序論編

第一章 クレド受容の可能性
  日本人と洋楽受容能力
  日本人のクレド昇華への途
  クレド邦楽化に最も近いロレンソ
  箏曲「六段」及び諸田賢順についての検討課題


第二章 肥前鍋島家とキリスト教
  佐賀藩の創造的動き
  イエズス会が目論んだ日本の宗教的・政治的隙間への浸透
  鍋島家滅亡の危機とクレドを通過させた決断
  イベリア両国による布教の真の目的



本論編

第一章 キリスト教受容の時代的背景
  切支丹に魅入られた空虚な社会情勢と求道への萌芽
  中世西欧再生への動きと日本への波及
  日本人の新世界への目覚めと反応
  期待される人物像の登場


第二章 クレド受容への途
  イエズス会による教理受容への土壌造り
  音楽から受ける精神的効用
  日本の宗教音楽
  西洋音楽の受容


第三章 鍋島佐賀藩誕生と新文明の学習
  竜造寺氏侵攻対イエズス会の本音
  竜造寺氏の西部肥前への介入と鍋島氏の学習
  鍋島氏の領主としての資質を生ましめた要因
  竜造寺隆信後の佐賀を牽引する思考


第四章 佐賀藩におけるキリスト教受容
  佐賀藩における武士道と切支丹精神との接点
  佐賀領国と切支丹との遭遇
  鍋島家とドミニコ会
  筑後地方における布教
  久留米と肥前鹿島を結びつけたドミニコ会
  排教下の切支丹各会派存続危機意識共有への模索


終 章 佐賀藩箏曲の揺籃と深化
  佐賀藩の文治への模索と葉隠
  佐賀藩の文化的母胎
  グレゴリオ聖歌クレドの足跡





  ◎伊藤和雅
(いとう かずまさ)……1943年佐賀県生まれ 西南学院大学国際文化学部非常勤講師



  ◎西日本新聞に本書の紹介が掲載されました(2019年3月28日)
   筝曲「六段」は佐賀で完成 キリスト教受容通じ「クレド」の調べ保存



ISBN978-4-7924-1102-2 C3021 (2019.2) A5判 上製本 352頁 本体8,000円

  
音楽・宗教・思想の協奏的な歴史像

九州大学大学院比較社会文化研究院教授 高野信治  

 著者と私は九州・佐賀出身の同郷である。かつ、ともに佐賀藩に関心を寄せる。しかし、私にとっては得がたい著者のアプローチ手法を感じる。

 私は、戦国大名竜造寺氏から近世大名鍋島氏への領主交替という一種の下剋上により成立し、鍋島氏に併呑される竜造寺氏へのシンパシィをベースに御家騒動物として名高い「猫化騒動」が創作された、との如き見通しを同藩研究のベースにする。これに対し、著者は幕藩体制形成期に「 『死や恐怖』の崖っぷちに直面し」(本書七七頁)た鍋島氏との視角を持ち、かかるなかで有田焼など新たな文化創造の地盤が形作られ(美術に造詣深い著者は『古伊万里の誕生 ―古九谷論争の再検討―』吉川弘文館、二○○六年などの定評書を持つ)、その一環として初代藩主・鍋島勝茂がドミニコ会のキリスト教会設置を容認した倫理観や佐賀藩武士道思想との関係性から、クレド(グレゴリオ聖歌)受容を考察する。

 本書は、箏曲・六段とクレドに象徴されるキリシタン信仰(著者は「切支丹」表記を用いる)、それと武士道の関係性を問うのを主題とし、歴史舞台を九州・佐賀藩におく。キリシタン信者たちは聖歌を唱えながら殉教したという記録をもとに著者はクレドに注目する。これと八橋検校が創作した箏曲・六段との音楽的な近似性が、著名な音楽関係者(皆川達夫氏など)よりすでに指摘されている。つまり、この箏曲はクレド・西洋音楽の影響を受け、筑紫・北部九州に展開していた琴奏法などといわば融合し創作されたという。その歴史的な検証の当否は判じ難いが、著者は佐賀藩で近世初期にキリスト教の布教活動が行われ、鍋島氏も一定の受容をしたことに注目し、クレド(殉教の際に唱歌)の箏曲・六段創作への影響を想定しつつ、神への奉公と主君への奉公の同質性を、著名な「葉隠」に代表される佐賀藩武士道思想と関連させ洞察するのだ。

 私は歴史とその物語性に注目するが、実証的歴史学からすれば、きわどいという思いが、実はある。本書は、かかる私でさえたじろぐ発想をバネにする作品である。もっとも歴史の総合的観察は重要と思う(拙著『近世政治社会への視座』清文堂、二○一七年)。私が歴史と物語双方に目配りするのは、その一端である。かかる立場からは、歴史のなかでの音楽・宗教・思想の協奏的な考察の試み、本書はこのようにみえる。宣教師側史料も注意深く読み込み、キリスト教受容を精査しつつ、十六〜十七世紀の音楽史さらに世界史を背景に、鍋島氏にとり苦しき近世幕開けの〈歴史の調べ〉を追うが如くだ。

 歴史に関心を持ちながらも、際だったアプローチの違い故に、私はむしろこの協奏的な試みの本書を、好学の徒に薦める次第である。本書読後に改めて箏曲・六段を鑑賞。読前と異なるイメージを持つのは不思議である。
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。