籠神社の綜合的研究
海部穀成総監修 三橋健編


天橋立の付け根に位置し、雪舟の『天橋立図』にも「丹後国一宮」として登場する元伊勢籠神社。源流と祭神・社名・社格、国宝の系図、縁起書、本殿、仏教との関係、祭祀と芸能、社宝・文化財、『倭姫命世記』、社会・芸術との関わり、文献資料、そして年表や参考文献関連といった側面から分析していく。籠神社の由緒のみならず、気鋭の研究者と亡き碩学の足跡の記念碑、また丹後の地域史としても意義深い。




■本書の構成


口 絵
刊行によせて…………
籠神社宮司 海部穀成
籠神社の歴史と伝統の深さ…………三橋 健
【対談】籠神社の来し方行く末…………
籠神社名誉宮司 海部光彦 神道学者 三橋健

第一章 籠神社の源流と祭神・社名・社格
比沼・比治・比遅・日沼野に関する伝承…………海部穀定
籠神社の主祭神・天火明命…………鈴鹿千代乃
籠神社社名考…………三橋 健
籠神社社格考…………白山芳太郎

第二章 海部氏の系図 ―『海部氏系図』『海部氏勘注系図』―
籠神社蔵『海部氏系図』の書誌的情報を巡って…………宇都宮啓吾
『海部氏系図』の校訂…………田中 卓
籠名神社祝部氏系図…………石村吉甫
海部氏系図の複製と押捺印章の解明…………村田正志
『海部氏系図』の研究…………鈴木正信
海部氏系図 附海部氏勘注系図 …………村田正志
丹後国風土記逸文考 ―その逸文を含む海部氏勘注系図の検討― …………瀧川政次郎
国宝海部氏勘注系図の特質…………藤原茂樹

第三章 籠神社の縁起書 ―『丹後国一宮深秘』―
籠神社蔵『丹後国一宮深秘』の書誌的事項…………横田隆志
籠神社蔵『丹後国一宮深秘』の書誌に関する補記…………宇都宮啓吾
【翻刻】『丹後国一宮深秘』 ―付、智海請文― …………横田隆志
籠神社蔵『丹後国一宮深秘』所引の中世神道説について ―中世社寺における神道説受容の一齣― …………新井大祐

第四章 籠神社の本殿
棟札にみる江戸時代の籠神社の社殿変遷…………吉野健一
丹後一宮の籠神社本殿 ―籠神社の御本殿の特質― …………三浦正幸

第五章 籠神社と仏教関係
天蓋山大谷寺…………黒川文子
籠神社と仏教寺院…………河野 訓
一宮大聖院・智海覚書…………大東敏明
成相寺参詣曼荼羅に描かれた籠神社と「真井社」…………吉野健一

第六章 籠神社の祭祀と芸能
能《真名井原》再考 ―その内容と成立をめぐって― …………小林健二
府中・籠神社葵祭りの芸能…………青盛 透
丹後の赤米(古代米)と一宮籠神社の赤米神事…………安本義正
丹後国一宮籠神社の祭祀・儀礼と神主海部氏 ―中世より近世に至る展開を中心に― …………吉永博彰
豊受大神と海部氏…………海部やをとめ

第七章 籠神社の社宝・文化財
元伊勢籠神社海部宮司家神寶の二漢鏡公開に際して…………瀧川政次郎
海部氏伝世鏡について…………樋口隆康
籠神社の石造師子狛犬…………伊東史朗
神 面…………伊東史朗
神宝各種…………伊東史朗

第八章 籠神社と倭姫命
倭姫命の伝承世界…………中西正幸
海部家秘蔵内宮所伝本『倭姫命世記』の解題…………三橋 健
【翻刻】内宮所伝本『倭姫命世記』…………三橋健・海部やをとめ

第九章 籠神社をめぐる諸問題
天橋立図はいくつあったのか ―籠神社との関係を軸に― …………島尾 新
籠神社所蔵考古資料と周辺の遺跡について…………森島康雄
丹後府中の古代遺跡と国府論…………河森一浩
『丹後國內神名帳』と丹後国分寺…………三橋 健
『丹後國內神名帳』の伝本 ―新出『丹後國內神名帳』の紹介によせて― …………三橋 健
『丹後國內神名帳』と式内社及び国史現在社 ―丹後国を例証として― …………三橋 健
【翻刻】『丹後國內神名帳』…………三橋 健
港町をめぐる ―丹後府中― …………伊藤 太
文政十三年の真名井神社への「おかげ参り」について…………吉野健一

第十章 籠神社の文献資料
籠神社所蔵史料の書誌的検討にあたって…………吹田直子
籠神社蔵『麗気記』の書誌的事項…………横田隆志
コラム 瀧川政次郎博士と籠神社…………島 善高

附 章
史料からみる籠神社通史…………吉野健一
文献等にみる籠神社歴史年表…………吉野健一
籠神社研究の参考文献…………三橋 健
あとがき…………三橋 健



ISBN978-4-7924-1452-8 C3021 (2022.4) A5判 上製本 口絵8頁・本文1124頁 本体16,000円

  
籠神社の歴史と伝統と本書の意義

神道学者 三橋 健  

 日本三景の一つ天橋立の付け根に鎮座する籠神社の本宮は、養老三年(七一九)三月二十二日に、元宮たる奥宮の真名井(まない)神社(吉佐宮(よさのみや)・匏宮(よさのみや)等とも)の地から現在の宮津市大垣へと遷座されたという古い歴史がある。折しも令和という新時代の幕開けとともに、本宮は御鎮座千三百年の佳節を迎え、式年大祭が斎行され、それを記念して本書の編纂が始まった。

 社伝によれば、天橋立は伊射奈藝大神
(いざなぎのおおかみ)が真名井原におられる伊射奈美命(いざなみのみこと)のもとへ通われた梯子(はしご)であるという。神代さながら二神は真名井神社の真裏にある磐座西座(いわくらにしざ)に鎮まっておられる。さらに、その奥に神奈備(かみなび)の天香語山(あめのかぐやま)(藤岡山(ふじおかやま)とも)があり、そこから籠川(このかわ)(現・真名井川)の水は流れ出ている。「籠(こ)という社名は珍しくその由来も諸説あり、一説に主祭神の彦火明命(ひこほあかりのみこと)が竹で編んだ籠船(かごふね)に乗って海神の宮へ行かれたことによると伝え、また大化四年(六四八)正月七日に豊受大神が天下られたので、海部直伍佰道祝(あまべのあたいいほじのはふり)は籠川のほとりに神籬(ひもろぎ)を立て奉斎したので「籠宮(このみや)」と称すとの説もある。

 このように真名井神社の神域には、神奈備山
(かみなびやま)や磐座(いわくら)があり、さらに高天原から海部家三代目の天村雲命(あめのむらくものみこと)が持ち降ったと伝わる天の真名井の水がこんこんと湧出している。これらに対する信仰は、いずれも縄文時代に遡るもので、それが今もなお息づいているのである。

 考古学の発掘調査によれば、真名井神社の境内地から縄文時代の磨製石斧
(ませいせきふ)・掻器(そうき)などが出土しており、人々が生活していたことが確認されている。また真名井神社本殿裏からは弥生時代の祭祀に用いた土器が出土している。これらにより、神祭りが行われていたことがわかる。

 重要なのは吉佐宮に豊受大神
(とようけおおみかみ)を奉斎してきたことである。この縁故により崇神天皇の御代に倭の笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)から当地へ天照大神(あまてらすおおみかみ)を遷祀し、四年間、豊受大神とともに奉斎していた。その後、天照大神は垂仁天皇の御代に、豊受大神は雄略天皇の御代に伊勢の地へと遷祀された。このような故事により吉佐宮は伊勢の内宮・外宮の元宮、すなわち「元伊勢(もといせ)」と呼ばれてきた。なお、本宮の神明造本殿は伊勢神宮正殿(しょうでん)に近い建築様式で、それは養老三年の本殿創建時に遡るという。また時代は降るが、南北朝の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』の丹後国の条に「大垣御厨(おおがきのみくりや)」を掲載することも注目される。

 ところで、吉佐宮から現社地へ遷座するとともに社名を籠神社と改め、天孫彦火明命を主神として祀ることになる。そのような経緯により朝廷から特別の厚遇を受けた。『延喜式神名帳
(えんぎしきじんみょうちょう)』に山陰道八ヵ国に三十七座の大社を登載してある。そこには出雲国の熊野坐神社(くまのにますかみのやしろ)・杵築大社(きづきのおおやしろ)(現・出雲大社)、因幡国の宇部神社(うべのかみのやしろ)など著名な大社も多くみられる。そのようななかで、祈年(としごい)・月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)等の祭に案上(あんじょう)の官幣(かんぺい)を預かったのは、当社の主祭神の彦火明命の一座だけである。このように当社が山陰道第一の大社といわれた理由は、神威盛んにして霊験あらたかによるものであろうが、それにもまして皇室の祖神と仰ぐ伊勢神宮が当地から遷されたという、いわゆる「元伊勢」であることが重要な要因として考えられる。

 鎌倉時代に入ると、いっそう神威を増し、丹後国の一宮
(いちのみや)、総社(そうじゃ)、あるいは総鎮守として朝野の篤い崇敬をあつめた。室町時代は神仏習合思潮が盛行し、当社の神宮寺として大谷寺が栄えていた。しかし応仁の乱により、京都は焦土と化し、足利将軍家や京都五山が権威を失っていき、安定しない世情が続き、いわゆる戦国時代が始まることになる。そのような時代に、不動明王(ふどうみょうおう)に対する信仰を基軸として、丹後国守護代の延永春信(のぶながはるのぶ)らとともに、この地域に活力を与え、都市再編成に努力したのが修験僧の智海(ちかい)である。当社との関係では一色義直(いっしきよしなお)を大檀那として開基した別当大聖院(べっとうだいしょういん)の住持として縁起書の『丹後国一宮神秘』を書写し、籠大明神は日本第一の神明、鎮護国家の霊社(れいしゃ)、伊勢の豊受宮の本社と主張して、神徳高揚に尽力した。雪舟が『天橋立図』(国宝)の中に、大きく「正一位籠之大明神」「一宮」を描き、また「大聖院」や「不動」を書き込んでいるのは智海の影響によるものといわれている。

 近代社格制度により、明治四年(一八七一)六月に国幣中社に列せられ、次いで昭和二十年(一九四五)三月に官幣大社に昇格した。戦後の昭和二十三年(一九四八)には神社本庁の別表神社となり、現在に至っている。

 千三百余年という悠久の歴史は、汲めども尽きぬ泉のごとくで、格式の高い祭祀の伝統と奥深い秘儀は、海部家当主により踏襲されている。現在の当主は本書を総監修された海部直八十三代の海部穀成氏であり、最も神聖視されてきた象徴として息津鏡
(おきつかがみ)・邊津鏡(べつかがみ)の「二璽神宝(にじのしんぽう)(二面の伝世鏡(でんせいきょう))」を所有する。これらの伝世鏡は始祖の彦火明命が天祖から賜ったと記録されている。

 さらに海部宮司家には「海部氏系図」「海部氏勘注
(かんちゅう)系図」二巻(ともに国宝)の古系図が伝存しており、学界に公開された。竪系図の古態を最もよく伝え、正史に埋もれた古代三丹地域の豪族の変遷、この地域の風土に根ざした伝承や風習なども記してあり、わが国の古代史研究にとって極めて価値の高い文献である。

 執筆者は以下の各位から御快諾を得た。その氏名を掲載順に記録する(敬称・論文名等は省略。転載論文はご遺族及び版元の許可を得た。死亡者には*印を付した)。

 海部穀成、*海部光彦、三橋健、鈴鹿千代乃、白山芳太郎、*海部穀定、宇都宮啓吾、*田中卓、*石村吉甫、*村田正志、鈴木正信、*瀧川政次郎、藤原茂樹、横田隆志、新井大祐、吉野健一、三浦正幸、黒川文子、河野訓、大東敬明、小林健二、青盛透、安本義正、吉永博彰、海部やをとめ、*樋口隆康、伊東史朗、中西正幸、島尾新、森島康雄、河森一浩、伊藤太、吹田直子、*島善高

 本書の構成は、籠神社の歴史と伝統の深さや来し方行く末について語った後、第一章「籠神社の源流と祭神・社名・社格」、国宝の「海部氏系図」「海部氏勘注系図」にまつわる第二章「海部氏の系図」、『丹後国一宮深秘』をとり上げる第三章「籠神社の縁起書」、第四章「籠神社の本殿」、神仏習合時代を語る第五章「籠神社と仏教関係」、第六章「籠神社の祭祀と芸能」、あまたの社宝や文化財について解説する第七章「籠神社の社宝・文化財」、秘書『倭姫命世記
(やまとひめのみことせいき)』等に関連する第八章「籠神社と倭姫命」、第九章「籠神社をめぐる諸問題」、神社所蔵の資料に書誌的解説を加える第十章「籠神社の文献資料」、そして年表や参考文献関連の附章と展開する。

 歴史と伝統ある籠神社の『論聚』を編む機会を与えられ、多くの先学たちから筆舌に尽くしがたい学恩を受けたことに感謝の意を表したい。あわせて、本書が今は亡き師友たちの足跡の記念碑となることを祈念し、籠神社のみならず、三丹地方の研究、さらにはわが国の伝統的精神文化に関心ある多くの人々の役に立つことを心から願っている。


※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。