坂本龍馬復権論と薩長同盟
山岡悦郎著


坂本龍馬への専門家の評価は、高くないのが現状である。しかし、薩長同盟の斡旋に限って考えると、著者は、小松帯刀や西郷隆盛をはじめとする薩摩藩側は、禁門の変における御所攻撃等は明らかに長州藩の非であると考えていたのに対し、木戸孝允をはじめとする長州藩側は文久三年の政変や禁門の変での処分は「冤罪」であると主張し続けて一度決裂したところを、小松・西郷を説得して会談を再開させた意義を再評価する。




■本書の構成


 はじめに

第一章 薩長提携に向かって
 一 第一次長州征討
 二 小松・大久保のすっぽかし事件
 三 慶応元年秋・冬の薩長関係

第二章 薩長同盟
 一 在京薩摩藩士の動きについて
 二 薩長同盟六か条
 三 同盟締結の過程
 四 同盟締結日について

第三章 坂本龍馬と薩長同盟
 一 歴史像の構築
 二 二通の龍馬あて木戸書簡
 三 会談再開と龍馬
 四 坂本龍馬と薩長同盟締結
 おわりに

 〈文 献〉



  ◎山岡悦郎(やまおか えつろう)……三重大学名誉教授 歴史・思想研究者




ISBN978-4-7924-1491-7 C0021 (2021.6) 四六判 並製本 208頁 本体1,800円

  
薩長同盟での坂本龍馬の働きを改めて検証する

山岡悦郎  

 坂本龍馬は、今でも圧倒的な人気者である。

 そして、龍馬ファンがすごいと思う彼の業績は、⒜亀山社中の創立、⒝薩摩藩名義による武器購入の発案、⒞船中八策の発案と大政奉還の実現、⒟薩長同盟の斡旋、の四つである。だが、大学等に籍をおく専門家は、これら四つをすべて認めない。それは、二〇一七年になされた「龍馬の歴史上の役割は大きくないから、彼の名前を教科書から除くべきだ」という高大連携歴史教育研究会の提言で明らかである。

 確かに、これまでに、⒜〜⒞は間違いであることが示されている。だが、専門家は、十分な研究なしに、もっとも重要な⒟も否定している。⒟が正しいかどうかの評価は、薩長同盟で龍馬がどのような働きをしたかを十分に考察してから、なすべきだろう。この考察を行ったのが本書である。

 さて、薩摩藩家老桂久武の日記に「(慶応二年〈一八六六〉)一月十八日に、薩摩側と長州側の会談が開かれた」と書かれている。これまでの研究では、この会談の内容を明らかにすることができなかった。そこで、筆者は、諸史料に、これまでに見られない新しい観点から光を当てることで、「十八日の会談では、禁門の変で長州藩に責任があるかどうかで、薩摩側の小松帯刀・西郷隆盛と長州側の木戸孝允は意見が対立し、この対立が解消されないまま、決裂状態で終結した」ということを明らかにした。

 当然のことながら、木戸は、それ以上の会談を断念して、長州に帰ることにし、二十日に送別会を開くことも決められた。丁度、二十日、遅れて入京してきた龍馬が彼らの前に現れた。それ以前に、龍馬は木戸から、「半日も早く、京都に来てくれ」と頼まれていたのだ。この「依頼」が専門家によって取り上げられることは少ないが、筆者は、同盟締結の過程を考える時、きわめて重要な事柄であると考える。交渉がうまくいかない時は、木戸は、龍馬に助けて欲しいと考えていたかもしれないからだ。

 木戸が懸念していたように、小松・西郷と木戸の交渉は決裂してしまった。しかし、木戸は何としても同盟を結びたかった。それまでの木戸との付き合いを通じて、龍馬は、木戸の心情を理解していた。また、自分に大いに期待していることも分かっていた。そこで龍馬は、木戸の言い分を聞き、それを小松・西郷に伝え、木戸の言い分を受け入れることが、薩長両藩のためだけでなく、日本全体のためでもあると説得した。

 これが功を奏して、会談は再開され、二十二日に同盟は締結された。龍馬が登場しなければ、確実に木戸は長州に帰っていた。会談が再開され、同盟が締結されるに至ったのは、龍馬の説得があったためである。龍馬の働きなくして、薩長同盟は締結されなかった。

 以上のことを、もっとも信頼できる一次史料を駆使して、しかも、それらに新しい分析を施すことによって明らかにしたのが本書である。龍馬の実相を知りたいという人のお役に立てれば、幸いである。
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。