近世奥羽の狩猟管理
弘前藩・盛岡藩・秋田藩のマタギと熊 
村上一馬著 


熊をめぐる論議が喧しい。熊と対峙するマタギはとかく山間部の住人と捉えられがちだが、天明等の飢饉による高持百姓没落前はむしろ平地に多かった形跡がある。利用部位への関心も、皮革から胆へと移行していく。一方、熊相手の武器としての銃所持・使用も、文政年間まで解禁しなかった秋田藩その他厳しかった日本海側諸藩と鷹揚だった伊達・南部家の対照ぶりが顕著で、また猟師の鼓舞策にも各藩の領民との向き合い方が看取できる。




■本書の構成

序 章

第Ⅰ部 猟師の熊狩りと管理 ―褒美と越境―

第一章 熊 胆の上納を督促される猟師 ~盛岡藩「家老雑書」から~
  はじめに/熊の利用と褒美/熊胆の上納不足/熊胆の密売と偽造/熊胆の秘匿/おわりに

第二章 猟師の継承と信仰 ~弘前藩「国日記」から~
  はじめに/猟師の継承/猟師の作法と信仰/マタギの巻物/おわりに

第三章 熊の奪い合いと密猟 ~弘前藩「国日記」から~
  はじめに/猟師の越境/熊皮の管理と罠猟/密猟の背景/おわりに

第四章 猟師の居村と階層の変化 ~弘前藩「国日記」から~
  はじめに/人喰い熊/熊の駆除/地域別の猟師の増減/猟師の諸郷役免除/おわりに

第五章 猟師の処遇と収入 ~弘前藩一ツ森村の辰蔵に着目して~
  はじめに/熊の利用/猟師の処遇と熊狩りの督励/猟師の組織化/おわりに

第Ⅱ部 奥羽諸藩における猟師鉄砲 ―数量と管理の諸相―

第一章 奥 羽諸藩の猟師鉄砲数 ~会津藩・仙台藩・盛岡藩ほか~
  はじめに/会津藩/仙台藩/盛岡藩/その他の藩/おわりに

第二章 秋田藩における猟師鉄砲の禁止と解禁
  はじめに/猟師鉄砲の禁止/秋田藩の害獣駆除/猟師鉄砲の解禁/おわりに

第三章 弘前藩における猟師鉄砲の制限と猟師の処遇
  はじめに/弘前藩の猟師鉄砲/領民による鉄砲使用/猟師の認可と処遇/おわりに

第四章 各 地へ入り込む秋田猟師 ~八戸藩・弘前藩・会津の史料から~
  はじめに/奥羽各地へ遠征する秋田猟師/会津へ出入りする秋田猟師/信濃へ出入りする秋田猟師/おわりに

  終章
  概 観/今後の課題

  あとがき




  村上一馬(むらかみ かずま)……1963年 愛知県生まれ 宮城県利府高等学校教諭




ISBN978-4-7924-1541-9 C3021  (2025.12) A5判 上製本 434頁 本体11,000円

  
近世奥羽狩猟史の全容が明らかになる
宮城学院女子大学名誉教授 菊池勇夫  
  


 猟師(マタギ)に関する研究は、柳田國男の『後狩詞記』を嚆矢として、主に民俗学分野において聞き取り調査などにより積み重ねられてきた。しかし、そこで語られてきた像がはたして妥当なのか。近世の猟師は狩を生業とし、親から子へと世襲され、猟場に近い山奥の村に住んでいたイメージが持たれているが、それは否、というのが、近世の文書史料を渉猟して得た著者の見解である。猟師は基本、高持の百姓身分であったとみる。

 著者自らも熊狩りする猟師に魅せられて、猟師に付いて熊の巻き狩りを参与観察してきた。そこでの聞き取りで生まれた問題意識が近世史料を調査するに至った起点になっているというから、民俗学の成果や言説を尊重してのことである。しかし、民俗学的手法には限界があり、その不足を歴史学によって補う、というのが基本的な立場であると表明している。

 その歴史学であるが、猟師(マタギ)に関心を向けることは少なく、等閑視してきたという。猟師と鉄砲の関係についても、豊臣秀吉の刀狩りや徳川綱吉の諸国鉄砲改めが有名であるが、刀狩りが鉄砲を没収した、あるいは没収していないという評価の対立が生ずるのはなぜなのか。また、鉄砲は百姓にとって欠かせない農具であるという説はすべての藩にあてはまるのか。こうした歴史学上の問題についても、近世史料の悉皆調査から判断を下している。

 本研究の本領発揮は、すでに述べたように狩猟・猟師関係の記事を諸々の記録から徹底して拾い出し、集積したことにある。弘前藩、盛岡藩、八戸藩の藩日記、および秋田藩「佐竹南家日記」については、全冊・全丁にわたって目が通された。猟師は役として熊皮・熊胆を領主に上納し、その対価を褒美としてもらったから熊関係の記事が多い。そうして得た大量の記事の分析は、本書に掲載した幾多の表として示され、きわめて説得力が高い。

 猟師とマタギはほぼ同義だが、マタギの語源は不明とし慎重である。奥羽諸藩の猟師と鉄砲の関係は一様ではなかった。仙台藩や盛岡藩などでは百姓所持の猟師鉄炮が多く、鉄砲所持者=猟師といえるのに対して、秋田藩では皆無、弘前はごくわずかにすぎなかった。刀狩りの武器没収の強弱と関わっている可能性がある。秋田藩で猟師鉄砲が解禁されたのは一九世紀に入ってからであった。熊猟には鉄砲ではなくタテ(鑓)か罠が使われていた。むろん、獣による作荒らしがあったから、そのときは「士鉄砲」の給人の派遣や、一時的な威鉄砲の百姓貸し出しで対応していたという。その場合、農具となるべき猟師鉄砲は所持されていなかったのである。

 秋田マタギが藩境を越えて隣藩に入り込み、さらには会津・越後、信濃秋山郷へも進出していたことが、近世史料から裏づけられた。確かな史実であった。もう一つ着目しておきたいのは、弘前藩の例であるが、とりわけ元禄期、人喰い熊が荒れていた。元禄の飢饉で、カテ草を求めて山野に入った人々が襲われていた。熊のテリトリーに人間が侵入したからである。飢饉時だけの問題ではない。野山の開発行為が野生動物の生態に影響を与えていった。今日、熊による人的被害が東北や北海道などで深刻化している。農山村の状況は近世とは逆になっているが、人と熊、その他の動物との関係についてどのように考えたらよいのか、本書は示唆を与えてくれるに違いない。

※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。