近代移行期の営為と模索
「場」・移動・意識
浪川健治編


第Ⅰ部は幕領・藩領間の公訴等の「難題」を防ぐ中間支配機構の施策や幕末の藩牧の廃止論と開発計画といった「場」の新展開、第Ⅱ部は廃藩置県前後の「借屋人」の負担整理を通じた正規の住民化、「仕事」に徹せる例が多かったという越後の遊女や女衒等の周囲、芸娼妓の契約や花街の育んだ美食の意義等の「場」の意義をとり上げる。第Ⅲ部は、農耕上の土俗的習慣だった弘前藩の「丹後者」排斥が藩の慣行と化していく過程や盛岡藩の通ごとの「役医」の活躍、明治中期の東方正教徒の音楽留学の意義を場と生き方の変容として分析する。




■本書の構成


 序 ………… 浪川健治

第Ⅰ部 時代を模索する政治と人間

 近世後期熊本藩の惣庄屋と用達 ―幕領日田商人との金銭貸借問題をめぐる対応― ………… 川端駆
 盛岡藩の地域開発と藩牧廃止論 ―新渡戸十次郎「昭瑶漫筆」にみる― ………… 中野渡一耕

第Ⅱ部 移動する人間の軌跡とネットワーク

 移行期における移動と役儀 ―明治初年を中心に― ………… 速渡賀大
 越後蒲原郡における飯盛女の輩出と女衒 ………… 伊東祐之
 信州高遠における花街の形成とその暮らし ―女性労働と饗応― ………… 加藤晴美

第Ⅲ部 他者をめぐる受容と排除

 「丹後者」考 ―俗信と他者排除の論理の形成― …………浪川健治
 近世後期盛岡藩における医師の活動 ―三戸通役医田島家を中心に― ………… 相馬英生
 明治中期におけるロシア留学の実現 ―その背景としての地域変容― …………山下須美礼





ISBN978-4-7924-1540-2 C3021  (2025.12) A5判 上製本 340頁 本体8,800円

  
ミクロな歴史は、マクロな歴史そのものである

広島大学名誉教授 河西英通  

 歴史は「時間」と「空間」からなり、それが織りなす「場」が地域である。編者の浪川健治氏はこうのべる。はたして近世から近代に向かって、「場」はどう変容していったのか。

 「第Ⅰ部 時代を模索する政治と人間」は、封建的割拠体制を相対化する「場」の検討である。川端駆論文は、近世後期の熊本藩領民と隣接する幕領日田商人間の、支配単位を越え地縁性を持つ金銭貸借問題をとりあげ、辺境域における「舵取り」、非武士身分の「用達」の役割に注目する。中野渡一耕論文は、盛岡藩の新渡戸伝・十次郎父子の地域開発論をとりあげ、藩営牧場の新田開発用地への転用が、経営改善論や農民たちの自立志向、幕府・新政府の圧力もふまえて進行し、新たな「場」が形成される姿を追っている。

 「第Ⅱ部 移動する人間の軌跡とネットワーク」は、「場」に生きた人々の姿を活写する。速渡賀大論文は一八世紀後半から明治初期にかけた信濃国南部の借家人集団の動きをとりあげ、農業渡世が多かった他国者の借家人が明治にかけて役儀を勤めることで、村での居住が保障され、百姓との区別も消えて行った過程を明らかにする。伊東祐之論文は、越後蒲原郡から多くの飯盛女が輩出された背景を、地理的条件、性観念の問題、出稼ぎや移住など地域交流のネットワークから説明し、女衒(仲介人)の活動を詳細に分析することで、この地域の女性像の一側面を描いている。加藤晴美論文は、信州高遠町の花街の形成を論じているが、芸妓たちの広域移動性を指摘するとともに、花街が地域社会の「遊興」空間であったことで、地域特有の食文化・宴席文化が展開されたと論ずる。

 「第Ⅲ部 他者をめぐる受容と排除」は、近代に向けた「場」と「生き方」の変容を描く。浪川健治論文は、弘前藩領における俗信から始まった「丹後の人」と「南部の人」に対する排他主義(particularism)が、やがて歴史事実化され、一九世紀の藩領を越える人々の移動を前に、藩主導の他領者への拒絶・排除に改変されていった経緯を論じている。相馬英生論文は、近世後期盛岡藩の藩医、城下で診察に当った「御医師」と代官所ごとに配置された「役医」の実態を分析することで、医療における学問と治療の二元性を指摘し、地域における医療体制の構築に言及している。山下須美礼論文は、仙台藩・宮城県の東方正教(ギリシャ正教・ハリストス正教)の布教における音楽の機能に着目し、士族ハリステアニンや旧仙台藩士のつながりを通して、青年信者がロシア留学に向かう姿を追う。

 いずれの論文からも、歴史は「時間」と「空間」からなり、移り漂う「場」は滔々とした大河のようだが、静寂な世界ではなく、激しく岸辺を洗い、川底にぶつかり、渦を巻き、そして氾濫もしている様子が見えてくる。 

 編者はいう。「場」をめぐる歴史研究のベクトルは、法則や概念の一般化ではなく、「場」の理解から、歴史全体を構成することであると。人間の歴史は〈一般〉へ埋没させられることなく、逆説的だが、〈抽象化=論理化〉への飛躍を通して、生き生きとした人間社会の遠望へと近づく。「一地方に徹底すれば、全国は眼前に髣髴としてくる」(中村吉治)という名言を想起するではないか。ミクロな歴史はマクロな歴史の一片ではなく、マクロな歴史そのものなのである。これだから、歴史は面白い!
※所属・肩書き等は、本書刊行時のものです。